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弁理士のひとりごと~この本を読んで(1)

 

今回は、「百億の昼と千億の夜」(光瀬龍著)について話したい。登場する名前に少し違和感があるかもしれないが、あしゅらおう(阿修羅王)、シッタータ(悉達多)、オリオナエといったサイボーグが、時空を超えて宇宙を破滅に導く存在「シ」に抵抗しその正体を追求するお話。なお、「百億の昼と千億の夜」については、萩尾望都共著のマンガ本も存在する。
 私が10代前半の頃に遡る。当時、天文に興味を持ち始めた私は、太陽系について調べるうち、大変な予測がなされていることを知った。私たちの太陽は、何十億年だか後に赤色巨星となって下手すると地球までも飲み込むほどに膨張し、その後一時高温の白色矮星となるも徐々に冷却して死の星となるというのである。それでも、太陽君は細く長くのシブトいタイプらしく、超新星やブラックホールにならないだけましらしい。人類は太陽系外に逃れ出るしかない。
 ところが、その直後、別の有力な学説を知ることになる。ビッグバンの仮説によれば、宇宙は膨張を続けており、いずれただ暗黒のみの熱的な終焉を迎えるか、或いは再度極限まで収縮するビッグクランチに至る。人類は仮に太陽系外に出ることができても、宇宙とともにただ終末を待つしかない存在である。気が遠くなるような未来のことなのに、すべてが終わるときが必ず来るという事実を突きつけられ、このことが脳裏に焼きついた。では、なぜ生命は存在しているのか。
 宇宙自体に終末があり、人類といった生命も滅亡に向かって引き返せない道を辿っているという考えに、私は、今から思えば滑稽とも思えるが絶望的な闇と向き合うことになった。最初は、「おばあさんの話だと輪廻によって人はよみがえるって言ってるけど、これってよみがえる場所もなくなるってこと」とか、「死んでも魂は残るとも言うけれど、これじゃ魂の行き場もなくなるってこと」などと大真面目に心配していた。その後は、人類が宇宙空間に飛び出して活躍する宇宙時代の到来も、子供だましのようであほらしく感じたのであった。
 そんなときに偶然出会ったのが、「百億の昼と千億の夜」だった。私は、この本を一気に読み終えた時、それまでの何年か抱えてきた虚しさが静かに洗い流される気がした。それは、宇宙の果てを超えた先にある超越者或いはその世界の存在可能性について示唆を得たからではない。宇宙の終焉や生命の存在意義について、私を遥かに超えて苦悩又は思考している人(著者)がいると感じたからだ。今思えば、悩んでなぜと問い続けること自体にも希望の光があることを感じとったからかもしれない。
 宇宙に比べると急にスケールが小さくなるが、地上における産業の発達(特許法第1条等)についても、私は、明るい未来を語ることに時としてちゅうちょする。産業の発達によって人類や地球の終末を加速しているだけかも知れない。伝統的な技術にも間違いなく価値があるわけで、技術革新という偏った側面からだけの価値判断にとらわれると、産業にゆがみを与え文明を損なわせる可能性もある。何だか楽観的になれない私は、自分の仕事が人々の日々の生活に少しでも役立つ発明を世に送り出すお手伝いをしていることになればと、ひたすら願うだけである。

福田