弁理士のひとりごと~この本を読んで(6)

 

 今回は、「鼻の小人」(W・ハウフ著)について。これは、魔法使いにかどわかされた少年ヤーコプが様々な苦難や危機を乗り越えて成長し父母の元に戻るまでのお話。後で知ったが、このお話は、枠物語である「アレッサンドリアの長老とその奴隷たち」に組み込まれた一遍の童話である。当時の私は、この童話の不思議な世界に引き込まれ、繰り返し繰り返し読んだ。
 この童話、今読むと、「鼻の小人」に続く枠物語部分が現代でも色あせないきらめきを放っていると感じる。もちろん今回も、私は劇中劇的な「鼻の小人」の世界に引き込まれたわけだが、この物語のどこに惹きつけられるのであろうか。知恵と忍耐で仕事を覚えて料理の腕前をあげ、醜い姿に変えられても周囲から信頼を勝ちとる若者の姿だろうか。それもあるかも知れないが、私には、できない料理をできるとハッタリをいってしまい窮地に陥る若者の姿、助けたものに助けられてこの窮地からギリギリのところで逃れる若者の姿が印象的である。
 その場を切り抜けるためのデマカセであっても、未来につながることであれば、嘘が真実になる可能性があるという点は、面白いと思う。現実の社会において、経験不足で自信のないことでも、できます任せてくださいと安請け合いする。そして嘘にならないようにベストを尽くす。特に、若者には許されることではないだろうか。ハッタリ的な約束を実現するために苦しむことで得られるものは大きいと思う。
 嘘にまつわるものとして、特許法では、詐欺(第197条)、虚偽の陳述(第200条)、偽証(同法第199条)等を問題としている。いずれも、錯誤に陥れる結果になったり過去の事実を歪めたりしなければ適用がない。将来のことでハッタリをいっても、結果的に嘘にならなければよいのである。未来には、言葉の自由と責任の世界が広がっている。

福田

 

弁理士のひとりごと~この本を読んで(5)

 

 子供の頃、私は、将来エスキモーとして生活してみたいと本気で考えていた。今回話題とする本は、「エスキモー探検記」(本多勝一著)である。この本には、著者とカメラマンがエスキモーの小さな部落で2ヶ月程度彼らと生活をともにした様子が描かれている。なお、この本は子供向けであり、「極限の民族」という原作がある。
 この本で最も強い印象を受けたのは、カリブーの狩猟で獲物の解体の際に腸を食べる場面である。著者がフンの臭いなどで肉を吐き出す場面は強烈で、まるで自分が体験したように感じたものである。自分がエスキモーとして生活するときには、この場面で我慢できるだろうかと、本気で悩んでいた。
 さて、この本では、そり犬の調教について印象深い話が出てくる。エスキモーは、そり犬を決して甘やかさず、使えない犬は見捨て或いは半殺しにする。著者は、酷寒の自然の中で生き残るためエスキモーが犬を道具のように扱うことを肯定し、一部の愛犬家が彼らを非難するならば、まず人間が優先されるというヒューマニズムの基本を理解していないと述べ、このような愛犬家の中途半端な感傷を利己的と喝破している。
 ところで、人間優先のヒューマニズムは、特許法にも存在する。例えば、人間を治療等する発明は特許されないが(特許法29条第1項柱書き)、犬等の他の動物を治療等する発明は特許の可能性がある。また、医薬に関する特許権の効力は医師の調剤行為等に及ばないが(同法69条第3項)、他の動物の治療薬に関する特許権の効力は調剤行為等に及び得る。人間と他の生き物との間には、厳然とした境界が存在するのである。
 なお、知財に関する最近の話題として、欧米に倣って医療方法の発明を特許の対象とする法改正の動きがある。人道的なことについて十分に議論し尽くして欲しいものである。
 最後に、この本に描かれているような生活を維持しているエスキモー又はイヌイットは、現在殆ど残存しない思われ、私的には大変残念である。もはや、かつてのようなエスキモーとして生活する願いは叶えられない。

福田

 

弁理士のひとりごと~この本を読んで(4)

 

 今回は、「高野聖」(泉鏡花著)について。この本には、修行中の若い僧が行脚中に深い山奥の一軒家に泊まった際の不思議な体験が書かれている。
 修行僧は、行きずりの薬売りの身を案じて山越えの旧道に入るが、日が暮れてしまい、やっとの思いで主の女と白痴が住む山屋にたどり着く。その後の出来事については省略するが、主の女の艶めかしい不思議な妖しさが、当時思春期であった私にとっては、いたく淫靡に感じられたものである。ただ、この修行僧が翌日山を下る途中で主の女と暮らしたくなって引き返そうとするくだりは、何か違和感を覚えた。今となっては、その気持ち、何だか分かる気がしないでもないが…。
 さて、この本では、魑魅魍魎といった幻影又はイリュージョンの世界が描かれており、このような幻影の世界は、一般に我々が扱う特許の世界とはかけ離れている。実際、明細書の作成では、非論理的なものを排して技術的な明確性を追求する必要がある(特許法第36条第4項1号等)。私自身も、これまで、極限まで贅肉をそぎ落とすように感性的な表現を避けて来たように思うのである。
 一方で、例えば発明を完成し事業化を夢見ている発明者は、一種幻影の世界にいるともいえるが、実のところ、その幻影的な想像力から発した熱意は、私にとって仕事のやり甲斐になっている。そもそも、発明自体が、合理的な着想で得られるものであれば当たり前ということになり、大発明ほど、発明者の強い情念や幻影に導かれた閃きの賜である場合が多いのである。私は、現実に見ることができ合理的に説明できるものだけにとらわれず、感性的で簡単に説明できない世界を大切にして、特許事務所の業務を続けたいと思うのである。

福田

 

弁理士のひとりごと~この本を読んで(3)

 

 今回は、「透明人間」(H・G・ウェルズ著)について。ある科学者が自分の体を透明にする実験を行い、悲劇に陥るまでのお話。これも、小学校の図書室で出会った本である。
 物語の始まりでは、包帯で顔をくるんで大きな青いメガネをかけた奇妙な風体の男がとある町の宿に滞在し個室内で謎の実験を繰り返す。そのうち、この男は、町の人々との間でいさかいやいざこざを起こして徐々に追い詰められていく。逃亡の果て、かつての友人の科学者と出会って、透明人間の秘密を明かすも、凶暴化したこの男を放置すると危険と判断した旧友科学者の通報によって、悲惨な末路をたどることになる。
 このお話、御伽噺のような隠れ蓑を用いない点、すなわち屈折率を調節し色素を無色にすることで人体を透明にするという点が科学的着想で面白いが、透明人間から元の姿に戻れず、ほとんど狂気とも思える犯罪に走ってしまう科学者が描かれており、何だか救いようがない気がし、とても暗い印象が残っている。
 人間は、自分の正体を知られないとわかったとき、単純化すれば二様に行動する。一方は陰徳、他方は犯罪。性善説や性悪説の議論もこのお話の背景にあるのかもしれない。正直のところ、私自身に関しては、正体を明かさないで善行のみを続けることは難しい気がしている。
 ところで、産業財産権の分野でも、正体を明らかにしないという手法がとられることがある。例えば情報提供制度(特施規13条の2、3)である。この情報提供制度では、誰でも出願発明や特許発明が新規性等を有していないといった有効性欠如に関する情報を提供することができる。情報提供に際しては利害関係を問われず、情報提供者の氏名、住所等を省略することも認められている。つまり、他人の邪魔な特許を潰すための資料を匿名で特許庁に通報できるのである。この場合、利害関係者が正体を隠す駆け引きとしての側面はあるが、建前上は公衆の審査協力といった善意面が本質と考えられる。保護価値のない特許が発生・存続しにくくなるという点で、よくできた制度であると思う。

福田

 

弁理士のひとりごと~この本を読んで(2)

 

 今回は、「黄色い部屋」(一般には「黄色い部屋の謎」)(ガストン・ルルー著)について話したい。密室「黄色い部屋」で起こった不可思議な犯罪の謎解きに挑む探偵記者等のお話。なお、著者のガストン・ルルーは、「オペラ座の怪人」の方で知名度が高いのではないかと思う。
 私は、小学校の図書室にあった探偵シリーズ物のうちの一冊として、「黄色い部屋」に出会った。今から思えば、少年少女向けにアレンジしてあったとしても、あまり小学生向けのストーリーではないような気がするが、教師にこうした小説分野に強い興味を持った方がいたのかなあと思う。
 この本では、古城の邸宅の離れにある黄色い部屋にて高名な学者の令嬢が重傷を負うという惨劇が発生したが、この部屋は完全な密室で、しかも、悲鳴の直後に学者等が駆けつけて突入したドアはほとんど逃走経路と考えられない。つまり、密室に忍び込んだ犯人が犯行後蒸発したかように消える不可能犯罪の事件を扱っている。見方を変えれば、孤立していると思われる系内の事象に対して外部から作用を及ぼすことができるか、できるとすればどうするかという問題を扱っている。「どうだ謎が解けるかね」と作者から挑戦を受けている気がしてくる本である。
 ところで、発明の分野でも、技術的な不可能性について議論される場合がある。例えば永久機関である。外部からエネルギーをもらわずに外部に仕事をし続けるタイプの永久機関は、熱力学第1法則(エネルギー保存則)により実現不可能であるといわれる。また、熱力学第2法則(エントロピー増大の法則)によれば、ある閉じた系において、その系内に熱源があってそこからの熱を仕事に変えたとき、この仕事によって生じた熱を100%の効率で熱源に回収することはできず、閉じた系内で永遠に仕事を続けるタイプの永久機関も実現不可能であるといわれる。
 私自身の経験でも、永久機関と称する発明を扱ったことがある。このような場合、永久機関だから出願は無理という態度は、好ましくないと考える。例えば一見永久機関に見える動作であっても、真の永久機関としてでなく、水飲み鳥のように恒久的に動作する場合があり、このような技術は発明(特許法2条第1項)として成立し得る。時として我々は謎解き又は技術解釈のお手伝いをしなければならなくなる。
 私は、代理人として、いたずらに出願を煽ってはならないと思う反面、永久機関がナンセンスと決め付ける態度もいかがなものかと思う。従来の技術常識にとらわれ過ぎることにより、新原理に基づく革新的発明を否定することにならなければと一抹の不安を覚えるのである。発明の最終的価値判断を行うのは私でなく社会であることを肝に銘じるべきである。

福田

 

弁理士のひとりごと~この本を読んで(1)

 

今回は、「百億の昼と千億の夜」(光瀬龍著)について話したい。登場する名前に少し違和感があるかもしれないが、あしゅらおう(阿修羅王)、シッタータ(悉達多)、オリオナエといったサイボーグが、時空を超えて宇宙を破滅に導く存在「シ」に抵抗しその正体を追求するお話。なお、「百億の昼と千億の夜」については、萩尾望都共著のマンガ本も存在する。
 私が10代前半の頃に遡る。当時、天文に興味を持ち始めた私は、太陽系について調べるうち、大変な予測がなされていることを知った。私たちの太陽は、何十億年だか後に赤色巨星となって下手すると地球までも飲み込むほどに膨張し、その後一時高温の白色矮星となるも徐々に冷却して死の星となるというのである。それでも、太陽君は細く長くのシブトいタイプらしく、超新星やブラックホールにならないだけましらしい。人類は太陽系外に逃れ出るしかない。
 ところが、その直後、別の有力な学説を知ることになる。ビッグバンの仮説によれば、宇宙は膨張を続けており、いずれただ暗黒のみの熱的な終焉を迎えるか、或いは再度極限まで収縮するビッグクランチに至る。人類は仮に太陽系外に出ることができても、宇宙とともにただ終末を待つしかない存在である。気が遠くなるような未来のことなのに、すべてが終わるときが必ず来るという事実を突きつけられ、このことが脳裏に焼きついた。では、なぜ生命は存在しているのか。
 宇宙自体に終末があり、人類といった生命も滅亡に向かって引き返せない道を辿っているという考えに、私は、今から思えば滑稽とも思えるが絶望的な闇と向き合うことになった。最初は、「おばあさんの話だと輪廻によって人はよみがえるって言ってるけど、これってよみがえる場所もなくなるってこと」とか、「死んでも魂は残るとも言うけれど、これじゃ魂の行き場もなくなるってこと」などと大真面目に心配していた。その後は、人類が宇宙空間に飛び出して活躍する宇宙時代の到来も、子供だましのようであほらしく感じたのであった。
 そんなときに偶然出会ったのが、「百億の昼と千億の夜」だった。私は、この本を一気に読み終えた時、それまでの何年か抱えてきた虚しさが静かに洗い流される気がした。それは、宇宙の果てを超えた先にある超越者或いはその世界の存在可能性について示唆を得たからではない。宇宙の終焉や生命の存在意義について、私を遥かに超えて苦悩又は思考している人(著者)がいると感じたからだ。今思えば、悩んでなぜと問い続けること自体にも希望の光があることを感じとったからかもしれない。
 宇宙に比べると急にスケールが小さくなるが、地上における産業の発達(特許法第1条等)についても、私は、明るい未来を語ることに時としてちゅうちょする。産業の発達によって人類や地球の終末を加速しているだけかも知れない。伝統的な技術にも間違いなく価値があるわけで、技術革新という偏った側面からだけの価値判断にとらわれると、産業にゆがみを与え文明を損なわせる可能性もある。何だか楽観的になれない私は、自分の仕事が人々の日々の生活に少しでも役立つ発明を世に送り出すお手伝いをしていることになればと、ひたすら願うだけである。

福田